真理子の聖書日記 真理子の聖書日記

このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[592]報道管制?
投稿者=真理子
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掲示日=2011/04/09(土) 20:44:59
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 昨日の「5時に夢中!」のゲストのフリージャーナリストの岩上安身さんが、これから官邸で重大発表があるって言ってたんですけど、どうなったのかしら?
 そういえば今日は、いままであれだけいろいろ言ってた福島第一原発の事故のようすがちっとも報道されてない気がするんですけど、ひょっとして報道管制?
 あ、こんなこと書いたら「デマを流すネットのサイト」ってことでお上から削除されちゃうかしら?

 いままでずっと私は「自粛反対」「自粛を自粛しましょう」って言ってましたけど、最近やっとマスコミもそういうようになりましたね。
 じゃ次は「無意味な節電反対」を言いましょうかしら。
 節水だったら、ともかく水を使わないことに意味があるんですけど、節電のほうは、電気の需要が下がる深夜なんかに節電してもまるっきり無意味だと思うんですけど。
 電気って風と同じ。「今日の風は強いから袋にためとこう」って袋にためて、翌朝袋をあけたらびゅうっと風が出てきて涼しいなんてことはないわけです。電気はためておけないんで、ピーク時にパンクしないように注意すれば、ふだんはそう節電しなくたっていいと思うんですけど。
 節電があまりに行き過ぎて、夜道が暗くなったりコンビニが閉店したりして深夜に女の子が安心して歩けなくなったとか、エスカレーターがとまって足の悪い方が困っていらっしゃるとか、近隣から白い目で見られていたスナックが「節電だ。夜まで営業するな」と節電を理由に営業の妨害をされるとか、いろんな話があるんですけどね。だいたいテレビが節電を呼びかけてるのがおかしいわ。テレビ局なんて絶対に節電しませんしね。深夜番組だってやってるじゃない! あ、深夜番組反対ってことじゃないですわよ。深夜は節電しなくていいんですから。

[591]予定説は用法・用量を守って正しく服用を
投稿者=真理子
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掲示日=2011/04/09(土) 20:21:52
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 いろいろ書きましたが、まとめると、私はマコ14:21

たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう。

を、次のように解釈しているのです。

 おいらが十字架にかかって死ぬのはさ、旧約聖書に書いてあるとおりなんだが、考えてみたらユダくんはかわいそうだよな。だって、おいらを裏切って、史上最大の裏切り者ってことでみんなからののしられる大悪人になることが、決まってたってわけだからさ。かわいそうに。ユダくんはこれを知ったら嘆くだろうね。「おれは最初から救われない裏切り者として創造されてたってわけか。そんな。生まれてこなけりゃよかったよ」ってさ。

 イエス様が「あいつ、おれを裏切るなんて、生まれてこなけりゃよかったぜ。ったく!」のように、自分にとってよくなかったという意味で言ったんなら、イエス様とも思えないひどいせりふってことになりますが、上のように考えれば、至極当然ですよね。
 「生まれてこなけりゃよかった」って、絶望感をあらわす定型句みたいなもんですよ。ヨブ3:3以降の「わたしの生れた日は滅びうせよ……」っていうのと同じでしょ?
 だから実は、岡野さんがこの部分を、イエス様の理不尽な言動の例として出しているのは、私は反対です。至極当然のせりふなんです。
 でも、私思いますに、ユダくんは裏切ることで自分の役目をまっとうしたわけですから、いまごろは「いやぁご苦労さま。あのときは大変だったねぇ。首つって痛かったか? まぁこっちは手にクギを打ち込まれて痛いのなんのだったんだから、かんべんしてくれよ」とかイエス様に言われながら、一緒に酒でも飲んでるんじゃないかって思うんですけど、やっぱりユダさんって救われないほうなのかしら?

 こんなふうに、すべての出来事があらかじめ神に予定されていたと考えるのを「予定説」と言います。特に、最後の審判で神様に救われる人と、救われない人とは、本人が知らないだけであらかじめ天地創造の昔にもう決まっていると考えるのが、カルヴァンの予定説です。
 神様が全知全能だとすれば、この説は至極当然、きわめて論理的に導き出せますよね。
 ところがこうなると、「じゃ、あの津波で多くの人が犠牲になったのも予定されてたのか。死んだ人はみんな罪びとだったのか」なんていう話になるので、困ってしまうわけです。

 長くなるので結論だけ書きますけど、私は、神様の救いを確信できる、希望のもてる文脈・場面だけで予定説を唱えればいいと思ってます。
 たとえば今回の災害で多くの人がお亡くなりになったのはたいへんにいたましいことですけど、つらい復興の中で人々が連帯するようになったとか、人のあたたかさを感じて希望が持てたとかいうときには「やっぱり神様っているんだわ」「これも神様の試練だったんだわ」と素直に思えるでしょう。それで希望が持てるでしょう。
 そういうふうに、希望を持つためにだけ予定説を持ち出せばいいんです。

 いま木曜日に読んでるヨブ記も、ヨブは最後の最後で救われます。ハッピーエンドで終わります。でも「じゃ第1章あたりで死んじゃったヨブの家族や召使たちはどうなるんだ。彼らには救いがないじゃないか」なんていうことを詮索しないことです。
 それと同様に、災害でおなくなりになった人がどうだったということを詮索せず、生き残った私たちが希望を持てたときに、「この災害は神様の試練だった」と思えばいいじゃないですか。