真理子の聖書日記
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[591]予定説は用法・用量を守って正しく服用を
投稿者=真理子
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掲示日=2011/04/09(土) 20:21:52
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いろいろ書きましたが、まとめると、私はマコ14:21
たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう。
を、次のように解釈しているのです。
おいらが十字架にかかって死ぬのはさ、旧約聖書に書いてあるとおりなんだが、考えてみたらユダくんはかわいそうだよな。だって、おいらを裏切って、史上最大の裏切り者ってことでみんなからののしられる大悪人になることが、決まってたってわけだからさ。かわいそうに。ユダくんはこれを知ったら嘆くだろうね。「おれは最初から救われない裏切り者として創造されてたってわけか。そんな。生まれてこなけりゃよかったよ」ってさ。
イエス様が「あいつ、おれを裏切るなんて、生まれてこなけりゃよかったぜ。ったく!」のように、自分にとってよくなかったという意味で言ったんなら、イエス様とも思えないひどいせりふってことになりますが、上のように考えれば、至極当然ですよね。
「生まれてこなけりゃよかった」って、絶望感をあらわす定型句みたいなもんですよ。ヨブ3:3以降の「わたしの生れた日は滅びうせよ……」っていうのと同じでしょ?
だから実は、岡野さんがこの部分を、イエス様の理不尽な言動の例として出しているのは、私は反対です。至極当然のせりふなんです。
でも、私思いますに、ユダくんは裏切ることで自分の役目をまっとうしたわけですから、いまごろは「いやぁご苦労さま。あのときは大変だったねぇ。首つって痛かったか? まぁこっちは手にクギを打ち込まれて痛いのなんのだったんだから、かんべんしてくれよ」とかイエス様に言われながら、一緒に酒でも飲んでるんじゃないかって思うんですけど、やっぱりユダさんって救われないほうなのかしら?
こんなふうに、すべての出来事があらかじめ神に予定されていたと考えるのを「予定説」と言います。特に、最後の審判で神様に救われる人と、救われない人とは、本人が知らないだけであらかじめ天地創造の昔にもう決まっていると考えるのが、カルヴァンの予定説です。
神様が全知全能だとすれば、この説は至極当然、きわめて論理的に導き出せますよね。
ところがこうなると、「じゃ、あの津波で多くの人が犠牲になったのも予定されてたのか。死んだ人はみんな罪びとだったのか」なんていう話になるので、困ってしまうわけです。
長くなるので結論だけ書きますけど、私は、神様の救いを確信できる、希望のもてる文脈・場面だけで予定説を唱えればいいと思ってます。
たとえば今回の災害で多くの人がお亡くなりになったのはたいへんにいたましいことですけど、つらい復興の中で人々が連帯するようになったとか、人のあたたかさを感じて希望が持てたとかいうときには「やっぱり神様っているんだわ」「これも神様の試練だったんだわ」と素直に思えるでしょう。それで希望が持てるでしょう。
そういうふうに、希望を持つためにだけ予定説を持ち出せばいいんです。
いま木曜日に読んでるヨブ記も、ヨブは最後の最後で救われます。ハッピーエンドで終わります。でも「じゃ第1章あたりで死んじゃったヨブの家族や召使たちはどうなるんだ。彼らには救いがないじゃないか」なんていうことを詮索しないことです。
それと同様に、災害でおなくなりになった人がどうだったということを詮索せず、生き残った私たちが希望を持てたときに、「この災害は神様の試練だった」と思えばいいじゃないですか。
[590]マルコ13-14章
投稿者=真理子
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掲示日=2011/04/09(土) 10:19:56
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=mar&chapter=13&mode=0
13章は神殿崩壊の予言。14章は最後の晩餐です。
この話自体はもうマタイで読んだので、今回は両章に共通して出てくるある言葉に着目してみましょう。その箇所をとりあえず口語訳であげておきます。
マコ13:17 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
マコ14:21 しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう。
上の「その日」というのは、イエス様は単に神殿崩壊のことしか想定していなかったかもしれませんが、一般には世界の終わり、最後の審判のときということになってます。体が不自由だったり誰かを介護しなければならない立場の人は、災害時には逃げ遅れちゃいますから。このご時勢、しゃれにならないわ。
下は、最後の晩餐のときにイスカリオテのユダ(以下単にユダ)が裏切ると予言したところで、いくらなんでも「生まれなかったほうがよかった」はあんまりだ、と、[547]でご紹介した、私が強い影響を受けた本、岡野昌雄さんの『イエスはなぜわがままなのか』
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/404867188X.html
に、イエス様の理不尽な言動の例としてとりあげられています。
これについては改めて考えますけど、そのためにはここを正確に読まねばなりませんので、今回はギリシア語を持ち出してみましょう。
「不幸である」「わざわいである」と訳されているのは、原文では ???? (ウーアイ。アクセントつきいギリシア語が文字化けする環境が多いのでアクセントなしでいきます)っていう語で、本来は「うーん。わーい。げげっ。げろげろ」みたいな間投詞なんですが、その直後に与格・対格・呼格の語が来ると、「〜を思うと私の胸は張り裂ける」という意味になるんです。田川建三先生は『新約聖書 訳と註 1』の中で、前者を「〜にとっては禍いがある、という客観的事実」、後者を「わざわいあれ、という呪い」と説明していますが、『新約聖書ギリシャ語小辞典』の織田昭先生は、わざわざ「禍あれ」ではない、と説明しています。田川ファンの私もここは織田先生の説明をとります。前者は「〜はかわいそうにねぇ」、後者はそれでもいいし、「〜はむかつくんだよな」でもいいし、ともかく胸が張り裂ければいいんです。
いずれにせよイエス様は、ユダのことで胸が張り裂けそうになってます。そして「生まれなかったほうがよかった」なんて言ってます。
ただ気をつけなきゃいけないのは、ここで「よかった」って言ってるのは、イエス様にとってではなく、ユダにとってです。イエス様にとってであれば、個人的な恨み、呪いのようにとれますので、イエス様とも思えないひどい話ってことになりますが、彼のために(アフトー。「アフトス」(彼)の与格)とありますから、ちょっと様相が変わってきます。
長くなりそうなんでまた改めて。