真理子の聖書日記 真理子の聖書日記

このサイトを作りながら、聖書を読みながら真理子が考えたことです。
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[581]金山神社のかなまら祭
投稿者=真理子
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掲示日=2011/04/03(日) 22:09:21
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 [573]でご紹介した金山神社に行ってきました。男性器のおみこしは自粛にせよ、かなまら祭そのものはちゃんとやってました。狭い境内は人でいっぱい。しかも若いカップルが多かったです。
 男性器の形をしたお守りとかないかしらと思っていったら、案の定いっぱい。お守りはむろんのこと、キーホルダーやらチョロQやら徳利やらいろいろあったので、エロおばさんの真理子はうれしくなっていろいろ買い込んできました。飴まで売ってて、男性器の飴を若い女の子たちが何の屈託もなくぺろぺろとなめながら、大根をけずって男性器の形を作る神事を見てる。
 そういう光景がぜんぜんイヤらしくないんですね。むしろ健康的。
 ユダヤ教−キリスト教−イスラム教が性を隠す宗教だとすれば、その対極がここにありました。こういうおおらかな性文化って、日本が世界に誇っていいんじゃないかしら。
 ところで、境内で売ってた飴って、すごく固くて、なめてもなめてもちょっとやそっとじゃなくならないんですよね。だんなは女性器の形の飴を、私は男性器の形の飴をなめながら神事を見てまして、この境内の中ではぜんぜんイヤらしくないんですけど、境内を出て駅にむかい、電車に乗ろうという時になってもちっとも減ってない。さすがにこれを電車にもちこんだらひんしゅくだろうと思うので、ビニール袋に入れて持ち帰り、いま自宅で続きをなめてます。

[580]1コリ15-16章
投稿者=真理子
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掲示日=2011/04/03(日) 11:09:14
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http://www.babelbible.net/bible/bible.cgi?bible0=col&book=1co&chapter=15&mode=0
 すばらしい話と大バカ説教が交互に押し寄せてきた1コリもこれで最後。前回の最後が「女は黙ってろ」という大バカ説教でしたから、今回はたぶんすばらしい説教なのでしょう。
 ずばり。クリスチャンの基本です。キリストは本当に復活したんです。これがウソだというならクリスチャンをやっていられません。キリストが復活したのですから、私たちも永遠の生命を受けて復活できるんです。
 しかし、貧相・貧乳・貧尻(ひんけつと読んでね)に生まれた私は、復活しても貧相・貧乳・貧尻なのかしら。復活のあかつきにもう少しは色っぽく生まれたいなと思うんですけどね。
 まあ、私のそういう悩みはどうでもいいんですけど、これって切実ですよ。重い病気、重い障害を背負って生活している人が、永遠にそういう悩みを背負い続けるってことになれば、永遠の生ってちっともありがたくないですよね。
 一コリ15:53によれば、復活後の生というのは、今とは違う状態のようなんで、このへんは大丈夫らしいんですけど、いまいちぴんとこないわ。

 実をいうと、世界中のクリスチャンが希望をもっている復活・永遠の生っていうのを、私はいまだにありがたく思えないんです。だって永遠ですよ。上に書いたように、仮に五体満足な美女に生まれ変わり、すてきな男性とエッチのしほうだいという楽しい生活ができたとしても、そんなのすぐに飽きることでしょう。世界じゅうの本も読んだ。行きたいところにはすべて行った。見たい映画もお芝居もみんな見た。もうやることは何もなくなった。それでも死ねずに、退屈な生が永遠に続くなんてぞっとします。こんなの、天国という名の地獄です。
 何度もいうように、天国と地獄って実は同じところなんですよ。そこを天国と思える人には天国、地獄だと思ったらそこは地獄なんです。私はたとえ天国に行ったとしても、そこを天国と思えないでしょうから、救われてないんでしょうね。
 むしろ私は、7〜80年生きたらそこでいったん死というリセットを迎えて、また次の生をスタートできるという、日本人の素朴な考え方に共感します。
 ちなみにこれは仏教の考え方とも違います。仏教ではこういう輪廻転生を苦ととらえ、もうこれっきりにしたいと考えます。それが解脱です。
 ともあれ、何度も死に何度も生きることに希望を見出してきた私は、ずつとキリスト教の死生観に違和感を覚えてきたんですけど、実はキリスト教の死生観といっても決して一枚岩ではありません。ここに書かれたパウロの考え方はあくまで一例です。当時の人たちはこの考え方で希望を持てたんでしょう。でも「私のお墓の前で泣かないでください」という例の詩が、キリスト教国であるアメリカで生まれたことからもわかるように、クリスチャンたちの死生観も実はさまざまなんです。
 要は、自分が希望を持てる死生観を持つことです。パウロが説く「最後の審判→復活」は、ホントはその先はさらに死・生・死・生…があるんだけど、とりあえず「今回死んだ後に次の生があるよ」ということだけ考えておきなさい、ととれば、私の納得できる死生観と矛盾しませんからね。